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『リック・ルービンの創作術』試し読み

『リック・ルービンの創作術』著者:リック・ルービン/ニール・ストラウス 訳者:浅尾敦則

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世界最高の音楽プロデューサーの経験と仕事術がこの1冊に。『リック・ルービンの創作術』12.19発売!

グラミー賞を9回受賞し、現在進行形で世界のトップアーティストたちとともに偉大な作品を生み出し続ける”究極”の音楽プロデューサー、リック・ルービンの「創造性(クリエイティビティ)を高めるための78の知恵」が詰まった指南書『リック・ルービンの創作術』が2024年12月19日(木)にジーンブックスより刊行します。

「素晴らしい作品を作るためには何をすべきかを書くつもりでしたが、結果的にそれは“どう在るべきか”についての本となりました。」———リック・ルービン

この言葉どおり、本書には、人生を成功へと導く鍵となる重要なマインドについての助言が数多く盛り込まれています。アーティストやクリエイターだけでなく、誰もが歩める、創造性を高めるための道、ルービンの知恵と洞察の道を辿る学びの旅路の一部を、本書より抜粋してご紹介します。

『リック・ルービンの創作術』試し読み

目的はアートを作り出すことではなく、
アートがあるのが当たり前という
素晴らしい状態になることだ。
        ロバート・ヘンライ

  本書に書かれていることはどれも、
  世の中に事実として知られていないことばかりだ。
  私がこれまで気づいたことについて考察したものだが――
  それらは事実でもなければ思想でもない。

  その中にはあなたが共感できるものもあれば、
  そうでないものもあるだろう。
  あなたの心の中で忘れられたまま眠っていた知識を
  呼び覚ますような内容もあるかもしれない。
  役に立つものがあれば活用してほしい。
  そうでないものは放置してもらってかまわない。

  生きている時間の一瞬一瞬が
  あなたをさらなる探求の旅へ誘っている。
  より深いところへ目をやり、
  ズームアウトし、ズームインしてみよう。
  新しい生き方を目指して
  可能性の扉を開いてみよう。

誰もがみんなクリエイターである

 伝統的ないわゆるアートに関わっていない人たちは、自分を〝アーティスト〟と呼ぶことにためらいを感じるかもしれない。創造性(クリエイティビティ)というものが何か特別な、自分には手の届かない能力のように思えるのだろう。アーティストとは、特別な才能を持って生まれた数少ない人のことだと。
 だが、そうではないのだ。
 クリエイティビティは決して珍しい才能ではない。誰でも簡単に手に入れることができる。クリエイティビティは人間の基本的な性質のひとつであり、いわば生得権のようなものだ。そのことは私たちすべての人間にあてはまる。
 クリエイティビティはアートを作るためだけにあるのではない。誰もがみんな毎日のように使っている。
 創造とは、それまで存在しなかった何かを生み出すことだ。その何かは会話かもしれないし、あるいは問題の解決法、友人への手紙、部屋の家具の配置、ひょっとしたら交通渋滞を避けて帰宅できる新しい道順かもしれない。
 あなたの作ったものが人々の目に触れ、レコーディングされ、販売され、アート作品としてガラスケースに収められるものである必要はない。人間としてただ普通に生きているだけで、私たちはすでに正真正銘のクリエイターだ。そして、私たちを取り巻く世界を形成し、自分たちが経験する現実を作り出している。
 私たちは常に、ありとあらゆるものがごちゃまぜになって存在しているフィールドにどっぷりと漬かっている。そのフィールドから私たちの感覚がさまざまな情報をかき集めているわけだが、私たちを取り巻く宇宙は私たちが認識しているような形で存在しているわけではない。私たちはさまざまな電気的、化学的反応を通じて、自分の頭の中にひとつの現実を作り出している。森も海も、暑いも寒いも、私たちが自分で作り出したものだ。文字を読み、人の声を聞いて、それを解釈する。そして瞬時に、それに対する反応を生成する。これらはすべて、私たち自身が創造した世界の中で起きている。
 アートを正式に作っているかいないかに関係なく、私たちはみんなアーティストとして生きている。さまざまなデータを感知し、フィルターを通し、収集する。そしてその情報をベースにして、自分自身や他人のために経験を整理している。ただ生きているというその事実だけで、それを意識的にやっているか無意識的にやっているかに関係なく、私たちは創造という現在進行中の作業に積極的に参加しているのだ。

 アーティストとはひとつの生き方だ。世界を感知する方法であり、意識を向ける行為だ。かすかな音にも波長を合わせる(チューン・イン)ことができるように感度を研ぎ澄ませよう。自分を引きつけるものや、自分を遠ざけるものを探してみよう。自分の中にどんな感情が生まれ、それが自分をどこへ導いてゆくかを感じてみよう。
 あなたの人生はあなたの下した選択の積み重ねで出来上がっている。人生そのものがひとつの自己表現になっている。クリエイティブな宇宙の中であなたはひとつの創造物として存在している。あなた自身が立派なアート作品なのだ。

チューン・イン

 この宇宙はクリエイティブな現象が果てしなく現れてくる玉手箱だ。
 樹木に花が咲く。
 細胞が増殖する。
 川に新たな分流が生まれる。
 世界はものを生み出すエネルギーに満ち溢れている。そのエネルギーはこの地球に存在するすべてのものの原動力になっている。
 この玉手箱から現れるすべての現象は宇宙に成り代わり、それぞれが自分のやるべきことをやっている。自分のやり方で、自分自身のクリエイティブな本能に従って。
 樹木に花が咲いて実が成るように、人間はアートを作り出してゆく。ゴールデン・ゲート・ブリッジ、『ホワイト・アルバム』、「ゲルニカ」、アヤソフィア、スフィンクス、スペース・シャトル、アウトバーン、「月の光」、ローマのコロッセオ、フィリップスのスクリュードライバー、iPad、フィラデルフィア・チーズステーキ。
 あなたの周囲にも目を向けてみよう。称賛に値するものがいくつも見つかるはずだ。そのひとつひとつが人間としての営みを反映している。ハチドリが巣を作り、桃の木が果実をつけ、入道雲が大量の雨を降らせるのと同じだ。
 ハチドリの巣も、桃の実も、雨粒も、ひとつひとつがみんな異なっている。そして偉大な作品も、すべてがみんな異なっている。世の中には、どの木よりもおいしい果実をつける木があり、誰よりも優れた作品を作る人がいるように思えるかもしれない。しかし、味覚や審美眼は主観的なものだ。
 雲は雨を降らせるときをどうやって知るのだろう? 草木は春の訪れをどうやって知るのだろう? 鳥は巣作りの季節をどうやって知るのだろう?
 宇宙はひとつの時計のような役割を果たしている。

 すべてのものには――
 相応しい時期がある――
 同じ空の下 どんな目的にも それに適ったときがある
 誕生するとき 死ぬとき
 植えるとき 刈り入れのとき
 殺すとき 癒すとき
 笑うとき 泣くとき
 築くとき 壊すとき
 踊るとき 悼むとき
 石を投げるとき
 石を集めるとき

[ピート・シーガーの曲「TURN! TURN! TURN! (To Everything There Is A Season)」の元になった旧約聖書の「伝道の書」より]

 そのリズムは人間が設定したものではない。私たちはみんな、もっと大きな創造的行為に参加していて、それを指揮しているのは人間ではない。私たちは指揮される側だ。そのアーティストは宇宙のタイムテーブルに従って動いている。自然界に存在するすべてのものと同じように。
 ワクワクするようなアイディアを思いついても、自分でそれを実現しないまま、結局別の人によってそれが実現されるケースは、それほど珍しいことではない。実現させたアーティストがあなたのアイディアを盗んだわけではない。あなたがそのアイディアを思いついた時点では、まだそれを実現すべきときが来ていなかったのだ。
 この素晴らしい玉手箱の中では、アイディアや思いつき、テーマや歌、その他のアート作品が目に見えない形で存在していて、それがスケジュールにのっとって熟してゆき、物質世界で表現されるのを待っている。
 その情報を引き出し、目に見える形にしてみんなと共有するのが、アーティストとしての私たちの仕事だ。私たち全員が、宇宙が発信しているメッセージの翻訳者だ。最高のアーティストは、ある瞬間に放出されたエネルギーをキャッチする最高感度のアンテナを持っている。偉大なアーティストの多くがまず最初に高感度のアンテナを身につけるのは、アートをクリエイトするためではなく、自分自身を守るためだ。自分で自分を守らないともっと傷つくことになってしまう。彼らはすべてのものをより深く感じているのだから。

 アートはムーブメントとともに訪れることが多い。近代の歴史を眺めただけでも、抽象主義的、表現主義的建築のバウハウス、フランス映画のヌーヴェルバーグ、詩のビート・ジェネレーション、パンクロックなど、すぐに思い浮かぶものがいくつもある。これらのムーブメントが出現するさまは、まさに波の如しで、アーティストの中には文化の流れを読み取り、うねりとなって押し寄せる波に乗るポジション取りが上手な者がいる。他の連中は波の出現を目にしてから、それに乗っかるかどうかを選択することになる。
 私たち自身がクリエイティブなアイディアを探るアンテナのようなものだ。信号には強く発信されたものもあれば、微弱なものもある。アンテナの感度が悪ければ、ノイズに埋もれた信号をキャッチしそこなってしまう可能性がある。そのような信号は特に、私たちが〝気づき〟のセンサーで収集しているものよりわかりにくい場合が多い。それらは手で触れられるものより強いエネルギーを持っている。意識して察知するより、直感的に感知すべきものだ。
 私たちはほとんどいつも、五感を使って世界中からデータを収集している。しかし、さらに高い周波数で発信された情報は、物理的に捉えることのできない、エネルギーを受信するチャンネルを使って受け取っている。これを論理的に説明するのは難しい。ひとつの電子がふたつの場所に同時に存在できることが論理的に説明できないのと同じようなものだ。このキャッチするのが難しいエネルギーには大きな価値があるけれど、それをキャッチできるくらいオープンな精神を持っている人は非常に少ない。
 聞いたこともなければ説明することもできない信号を、どうやってキャッチすればいいのだろう? その答えは、探さないことだ。そして、キャッチするための予測や分析もやらないことだ。そんなことをするより、それが入ってこられるオープンなスペースを自分の中に作ったほうがいい。詰め込みすぎが当たり前になっている私たちの頭の中に自由なスペースを作ってやれば、それがバキュームの役目を果たしてくれる。そうやって宇宙が提供してくれるアイディアを受け取るのだ。
 このような自由な状態になるのは、そんなに難しいことではない。私たちはみんなそこからスタートしているのだから。子供は受け取ったアイディアをいとも簡単に自分のものにすることができる。すでに持っている知識と比べることなく、新しい情報を喜んで受け取る。先のことなんか気にせずに、その瞬間瞬間を生きている。物事を深く考えず、思いのままにふるまっている。無感動ではなく、好奇心に溢れている。生活の中のなんでもない経験に大きな感動を覚えることさえある。深い悲しみのすぐ後にとてつもない喜びを感じることもある。普通の話を語るのに体裁を気にしたり、もったいぶった態度を取ることもない。
 生涯を通じて偉大な作品を作り続けることができるアーティストには、そんな子供らしさを失っていない人が多い。清らかで無邪気な目を通して世界を眺めることができるようになれば、宇宙のタイムテーブルに従って行動できるようになるだろう。

  アイディアが降りてきて、
  私たちを通じて
  自己表現する方法を見つけるときがある。

クリエイティビティの源

 すべてのものが私たちの始まりになる。
 見たことがあるすべてのもの、
 やったことがあるすべてのもの、
 考えたことがあるすべてのもの、
 感じたことがあるすべてのもの、
 想像したことがあるすべてのもの、
 忘れてしまったすべてのもの、
 そして口にしたことも考えたこともないまま
 ずっと自分の中にあるすべてのもの。

 これが源(ソース)となる材料で、私たちはここから、すべてのクリエイティブな瞬間を築き上げてゆく。
 ソースの中身は自分の内側からは出てこない。ソースは外の世界にある。私たちの身の周りにある知恵であり、ふんだんにあっていつでも自由に使えるものだ。
 私たちはそれを感じ取ったり、それを思い出したり、それにチューン・インしたりする。経験を通じて得られるものばかりではない。もしかしたらそれは、夢や、直感や、潜在意識下の断片であるとか、あるいは何らかの方法で外から自分の中に入り込んできたものかもしれない。どうやって中に入ったのかはわからないが。
 その材料は自分の中から湧き出てきたものだと、頭の中では思っている。でも、それはただの幻想だ。私たちの内側には、細かな断片が蓄積された巨大なソースが広がっている。それらの貴重な小片が、無意識の底から蒸気のように湧き上がって凝縮し、思い付きという形を取る。それがアイディアだ。

 ソースを雲のようなものと考えればわかりやすいかもしれない。
 雲は決して消えることはない。形を変えるだけだ。雨となって降り注ぎ、海の一部となり、それからまた蒸発して雲に戻ってゆく。
 同じことがアートにも言える。
 エネルギーを持ったアイディアが繰り返し循環しているのがアートだ。新しいものに見えるのは、戻ってくるたびに違う結合の仕方になっているからだ。雲だってまったく同じものはふたつとない。
 だから、新しいアート作品であっても、私たちを深いレベルで共感させることができる。もしかしたら、それは、私たちのよく知っているものが知らない形になって戻ってきたのかもしれない。また、実際にまったく未知のものであったとしても、自分がそれをずっと探し求めていたことに自分自身で気づいていなかっただけかもしれない。それは完成することのないパズルの、失われたピースのようなものだ。

  ひとつのアイディアを具体的な形にすることは、
  それをちっぽけなものに変えているようなものかもしれない。
  この世に存在しなかったものを存在するものに変えているのだから。

  想像の世界には限りがない。
  物質の世界には限りがある。
  作品はその両方の世界に存在する。

ルール

 ルールは行動の指針であり、創作の基準だ。アーティストにも、ジャンルにも、文化にもルールはあるだろう。そして、ルールは制約である、というのが本来の姿だ。
 ここで考察するルールは、数学や科学の法則とは別物だ。そのような法則は物質世界の精密な関係を表していて、繰り返し検証されて正しいことがわかっている。
 それに対して、アーティストが学ぶルールは絶対的なものではなく、あくまで仮のもので、短期的、もしくは長期的に結果が出るもののための目標や手法のことを言う。それは試すために存在していて、価値があるのは役に立っているあいだに限られる。決して自然の法則ではないのだ。
 仮のものとはいっても、表向きは法則のように見えるものだ。自己啓発本に書かれている提案、何かのインタビューで耳にしたこと、お気に入りのアーティストからのアドバイス、ある種の文化表現、あるいは、その昔学校の先生に言われたこと。
 ルールは私たちを平均的な行動へ向かわせてしまう。もし、傑出した作品を作ることを目指すのであれば、ほとんどのルールは役に立たない。平均的なものは目標にはならないのだ。
 目標は型にはまることではない。むしろ、違いを際立たせることであって、型にはまらないもの、あなたの世界観にしかない特徴を出すことだ。
 他人の声に似せるのではなく、あなた自身の声を大事にしよう。それを磨くのだ。それを愛しむのだ。
 ひとつの型が出来上がってしまうとたちまち、その型にはまらない作品がいちばん面白いものになってくる。私たちがなぜアートを作るのかといえば、革新的なことをやり、自己表現をし、何か新しいものを見せ、自分の内側にあるものを共有し、自分独自の視点をみんなに伝えたいからだ。

 プレッシャーや期待がいろいろな方向からやってくる。何がよくて何が悪いか、何が受け入れられて何が嫌悪されるか、何が絶賛されて何が酷評されるかということも、すべて社会の要求に左右されている。
 各時代を代表するアーティストというのは、だいたいにおいて、そのような枠からはみ出した人たちだ。その時代の型や考え方を体現しているのではなく、そういうものを超越したアーティストなのである。アートとは問題提起だ。観客に幅広い現実を見せて、いつもと違った窓から人生を眺めることができるようにする。それはまったく新しい、素晴らしい景色が見える可能性を持った窓だ。
 最初は、従来のフォーマットに従ってアプローチしてゆくことになる。たとえば歌を作るとしたら、3分から5分くらいの長さで繰り返しの部分があるようなやつだ。
 鳥にとっての歌は、それとはまったく違っている。3分から5分というフォーマットも、フックになるコーラスも、鳥にはお呼びでない。でも、歌が心地よく響くのは鳥の場合も同じで、しかも鳥本来の姿に根ざしている。鳥にとって歌は呼びかけであり、警告であり、結びつき、生き延びるための手段でもある。
 出発点や制約に関するルールをできるだけ少なくして作品づくりにアプローチするのは健全なことだ。私たちが選ぶ媒体はごくありふれたものであることが多く、それがあるのが当たり前だと、私たちは思っている。気をつけて見ようともしないし、疑問も抱かない。そのため、スタンダードの枠組みから外れた考え方をするのは不可能に近い。
 美術館へ行くと、展示されている絵画のほとんどは、ジャック=ルイ・ダヴィッドの「ソクラテスの死」であろうと、ヒルマ・アフ・クリントの祭壇画であろうと、長方形の木枠にカンバス地を張ったものに描かれている。絵の内容は千差万別でも画材は共通している。一般的に認められたスタンダードというものが存在しているのだ。
 もし、あなたが絵を描きたいなら、まず最初は、長方形の木枠にカンバス地を張り、それをイーゼルに立てて描くことになるだろう。その道具を選んだだけで、あなたはすでに、手に持った絵筆をカンバスに触れる前から、やれることを大幅に狭めていることになる。
 私たちは道具やフォーマットもアートの一部分だと考えている。しかし絵画は、美とコミュニケーションを目的として何かの表面に色彩を施したものであれば、どんなものであってもかまわないはずだ。他の部分はアーティストが決めればいいことだ。
 それと同じような基本型はほとんどのアートに存在している。書物ならある程度のページ数があって、それをいくつかの章に分けたもの。劇映画なら90分から120分くらいの長さの三幕物、といった具合だ。どんな媒体にも、その媒体に組み込まれた標準セットのようなものがあって、私たちが作業を開始する前から作品に制約を加えているのだ。
 とりわけジャンル分けには、ルールにのっとった数多くのバリエーションがある。ホラー映画、バレエ、カントリー・ミュージックなど――このようなジャンルは特定の内容を想起させるもので、自分が作っている作品を説明するためにジャンルのレッテルを貼った瞬間から、私たちはそのルールに従わないといけないような気になってくる。
 従来のフォーマットは、最初の段階ではインスピレーションを与えてくれるかもしれない。しかし、大事なのは過去の習慣にとらわれない考え方をすることだ。世界の人々は同じようなものばかりが次から次へ出てくるのを期待しているわけではないのだから。
 最も革新的なアイディアは、ルールを無視できるくらい十分にルールをマスターした人か、あるいはルールをまったく知らない人から生まれてくることが多いのだ。

 いちばんやっかいなのは目に見えるルールではなく、目に見えないルールだ。そのようなルールは心の奥に潜んでいて、自分ではその存在に気づいていないことが多い。アウェアネスの届かないところにあるのだ。そのようなルールは、たとえば子供時代の躾《「躾」に「しつけ」とルビ》、受けたことを忘れてしまったような教育、自分たちの文化、そして自分に刺激を与えてくれたアーティストなどを通じて、私たちの頭の中に入り込んできている。
 そんなルールが役に立つこともあるし、足かせになることもある。何事も常識と決めてかかることには注意が必要だ。
 無意識のうちに従っているルールは、意識して従うルールよりもはるかに強い力を持っている。それが作品に悪影響を及ぼすことも多い。

 どんなに革新的なアイディアでもルールになってしまう恐れがある。また、革新的アイディアはそれ自体が目的になる危険性も秘めている。
 自分の作品に役立つ発見をしたとき、それがパターン化するのは決して珍しいことではない。ときにはそのパターンこそがアーティストとしての自分を表現しているものだと信じてしまうこともある。こうでなければ自分ではない、というように。
 これは一部の作り手には恩恵をもたらす一方で、他の者にとっては制約になりかねない。ときにはその効果がだんだん失われてゆくこともあるし、そのパターンに何のメリットも認められないことだってある。
 自分のやり方を絶えず疑ってみるのは大事なことだ。特定のスタイル、メソッド、作業環境がいい結果をもたらしてくれたとしても、それがベストの方法だとは考えないほうがいい。あるいは、それこそが自分のやり方だとか、唯一の方法であるというふうには。とにかく信奉者にはならないことだ。それと同じくらい効果的で、しかも新しい可能性や、方向性や、大きなチャンスを与えてくれる、別のやり方があるかもしれないのだから。
 いつもそうだとは言いきれないが、そういうことも考慮しておいたほうがいい。

 すべてのルールは破るためにあるというのは、アーティストとして生きるのには健全な考え方だ。私たちの作業を陳腐で似通ったものにする制約から解き放ってくれる。
 アーティストとしてキャリアを築いていると、時間の経過とともにマンネリに陥って興味が薄れてくることがあるかもしれない。作品を作ることが仕事や義務のように感じられてくる。だから、自分が同じ色のパレットばかり使っているのではないかと気づくことも大事だ。
 次のプロジェクトはそのパレットを捨てることから始めよう。その頼りない気分が、ドキドキハラハラする経験につながるかもしれない。新しい枠組みが定まってしまえば、古いやり方をしていたころの要素が復活してきても、まったく問題はない。
 古いマニュアルを捨てても、それを使っていたころに習得したテクニックは失われないということを覚えておこう。苦労して身につけた能力はルールの制約を受けない。もうそれは自分のものなのだ。自分がこれまで積み重ねてきた経験の上に新しい素材と手法を重ねたらどんなものが出来上がるか、想像してみるのもいい。
 慣れ親しんだルールから離れようとすると、知らず知らずのうちに従っていた、目に見えないルールに出くわすこともあるだろう。そんなルールの存在に気づいてしまえば、それから完全に離れることも、逆に意識して使うこともできるかもしれない。
 どんなルールであっても、意識的に、あるいは無意識的に、試すだけの価値はある。自分の思い込みやメソッドを疑ってみることだ。そうすればもっといいやり方が見つかるかもしれない。たとえ見つからなくても、その経験から何かを学ぶことはできるだろう。すべての実験は、バスケットボールのフリースローみたいなものだ。失敗しても、失うものは何もない。

  今までこのやり方でやってきたから
  という単純な理由で
  自分のやり方がベストの方法だと
  思い込まないように
  気をつけよう。

根気強さ

 近道というものはどこにも存在しない。
 宝くじの当選で運命が急変した人がそれで幸せになるとは限らない。急ごしらえの家は嵐に遭うとひとたまりもない。本や記者会見の内容をざっくり要約したものを読んだところで、全文を読む代わりにはならない。
 私たちは知らず知らずのうちに近道をしていることが多い。話を聞いているときに途中をスキップして、話し手のメッセージを一般論と一緒くたにしてしまう。話をすっかり聞き流すことはないにしても、ポイントの微妙な部分を聞き逃したりする。近道は時間の節約になるという思い込みがある上に、長ったらしい話に付き合う苦痛からも逃れることができる。こうして私たちの世界観は縮み続けてゆくのだ。
 アーティストは人生をゆっくり経験するための行動を積極的に行う。一度やったことを新たに経験し直す。ゆっくり読み、何度も繰り返して読む。
 私はアイディアを与えてくれる文章に出合うと、目ではその先を読むという物理的な行為を続けながらも、頭ではそのアイディアのことをずっと考えていることがある。こうなるともう読んでいる内容は頭の中に入ってこない。そのことに気がつくと、憶えているページまで戻って、そこからまた読み始める。ときには3ページも4ページも前に戻ることがある。
 内容がよくわかっている文章でも、読み返すことで発見につながることがある。新たな意味、より深い理解、インスピレーション、微妙なニュアンスなどが浮かび上がってくるのだ。
 読むことだけでなく、聞くことも、食べることも、そして肉体的活動のほとんども、車の運転と同じように行うことができる。つまり、意識を集中していなくても可能だということだ。私たちは夢遊病のような状態で生活していることが実に多い。もし、自分のあらゆる活動に、飛行機を操縦して着陸させるときと同じくらい神経を集中したら、これまでとまったく違った経験ができるだろう。
 巡り合ったチャンスに全力で取り組まず、まるでやることリストにチェックマークをつけるような感じでこなしている人がいる。
 効率に対する飽くなき追求が、物事を深く見つめる妨げになっている。職責を果たすことに対するプレッシャーがあるので、すべての可能性を検討するだけの時間的余裕がないのだ。しかし、深い洞察力を手に入れるためには、慎重に行動することや同じことを何度も繰り返すことが欠かせない。

 微妙なニュアンスを出す技術を獲得するには根気が必要だ。

 情報をできるだけ正確な形で受け取るには根気が必要だ。

 伝えないといけないことをすべて盛り込んだ作品を作るには根気が必要だ。

 根気強さは身につけることが可能な習慣だ。それはアーティストの作品と人生のあらゆる面に恩恵をもたらしてくれる。
 根気強さはアウェアネスと同じようにして身につけることができる。現実をありのままに受け入れるのだ。根気強さとは反対の短気は、現実に異議を唱えることを意味する。自分が実際に経験していることとは違う何かを望んでいるのだ。時間をもっとスピードアップできたらいいのに。明日がもっと早く来ればいいのに。昨日をやり直せたらいいのに。目を閉じただけで好きな場所に行けたらいいのに。
 時間をコントロールすることは不可能だ。だから、根気強さはまず、自然のリズムを受け入れることから始まる。短気の根底にあるのは、時間をスピードアップし、自然のリズムをスキップすることで得られる、時間の節約という恩恵だ。しかし、皮肉なことに、短気は時間と労力を余分に費やす結果に終わってしまうことが多い。まさに、短気は損気なのだ。
 クリエイティブな作業に関して言えば、根気強さとは、私たちのやっている作業の大半は自分ではコントロールできないという現実を受け入れることだ。偉大な作品を力ずくで生み出すことはできない。私たちにできるのはそれを招き寄せて待つことだけだ。不安そうに待ってはいけない。それでは来るはずのものも怖気づいて来てくれないかもしれない。とにかく歓迎する気持ちを忘れないことだ。
 作品づくりの方程式から時間を引けば、後に残るのは根気だ。それは作品づくりだけでなく、アーティストとしての成長についても言える。タイトなスケジュールの中から生まれた傑作でさえ、他の作品に根気強く費やしてきた何十年という歳月の賜物なのだ。
 もし、どんなルールよりも破るのが難しいルールがあるとすれば、それは、クリエイティビティには根気強さが必要不可欠であるというルールだろう。

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