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【試し読み】インヴィジブル・マン マイケル・ジャクソン「スリラー」を作った男ロッド・テンパートンの生涯

『インヴィジブル・マン マイケル・ジャクソン「スリラー」を作った男ロッド・テンパートンの生涯』著者:ジェド・ピットマン 訳者: 城石容治

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マイケル・ジャクソンの名曲「スリラー」を生んだ伝説の作曲家ロッド・テンパートン――
その知られざる素顔を迫るドキュメンタリーが好評発売中!

今月7月22日に発売され、早くも注目を集めているインヴィジブル・マン マイケル・ジャクソン「スリラー」を作った男ロッド・テンパートンの生涯』。本書の魅力は、世界的なヒット曲「スリラー」「ロック・ウィズ・ユー」「ギヴ・ミー・ザ・ナイト」などを手がけながら、その素顔が長らく語られることのなかった作曲家ロッド・テンパートンの音楽と人生が、関わってきた様々な人の言葉によって明かされるところにあります。

「私にとって彼は、音楽界の偉人のひとりです。過去の偉大な人物たちと肩を並べる存在だと信じています。」
 ― クインシー・ジョーンズ(音楽プロデューサー)

今回、発売を記念して、本書の冒頭[はじめに]を特別に全文公開いたします。
1977年、筆者のジェド・ピットマンは、カーラジオから流れてきたヒートウェイヴの「ブギーナイツ」に衝撃を受け、その楽曲に心を奪われました。作曲者がロッド・テンパートンであることを知った少年時代の体験から始まり、彼の音楽を追い続けた年月、そしてロンドンのカフェで直接対面を果たし、BBCラジオのドキュメンタリー番組を制作するまでの経緯が綴られています。

長年ロッド・テンパートンの音楽を追い続けてきた筆者の視点から、彼の音楽や人物像が丁寧に描き出されています。本文に登場する楽曲をぜひ聴きながら、お楽しみいただければ幸いです。

書誌ページはこちら
https://books.jeane.jp/books/the-invisible-man/

 

『インヴィジブル・マン マイケル・ジャクソン「スリラー」を作った男ロッド・テンパートンの生涯』試し読み


はじめに

 

 1970年代に成長期を過ごしたぼくだが、ニックとナイジェルというふたりの兄がいたこともあり、家ではよく音楽が流れていた。兄たちの部屋からはさまざまなサウンドやビートが漏れ聞こえてきて、それはTレックスやスウィートといったグラムロックに始まり、セックス・ピストルズやクラッシュのパンク、そしてモーターヘッドのようなヘヴィメタルへと変化していった。

 1977年のことだ。ぼくたち兄弟は母が運転するヒルマン・インプ[イギリスの自動車メーカー、ルーツが製造していた小型車]で休暇先のコーンウォールに向かっていた。その途中、カーラジオから流れてきたのがヒートウェイヴというバンドの曲、「ブギーナイツ」だった。

 そのサウンドに鼓膜を叩かれた瞬間、人生が一変したことがはっきりと分かった。その曲のフックにグルーヴ、そしてメロディと、そのすべてにかつてないほど魅せられ、衝撃で身体が固まったようになり、自分自身が一変してしまった。

 その休暇中に初めてLPを買った。「ブギーナイツ」が入っているヒートウェイヴのアルバム『トゥー・ホット・トゥ・ハンドル』だ。どの曲も、ほんの数週間前に初めて聴いたものに匹敵する出来と思えたし、兄たちが家で流している音楽も気にならないほどに聴き込んだ。そして、それらの曲を書いたのがロッド・テンパートンなる人物だったのだ。ぼくは11歳だった。

 もちろん、ロッド・テンパートンについてぼくは何も知らなかった。アルバムの裏ジャケットにはメンバーの写真が載っていたが、目当ての人物ときたら会計士のような地味な外見なのだ。こんなすごい曲の作者とはとうてい思えず混乱してしまった。彼はまたバンドでキーボードも担当していた。ぼくも学校で音楽の授業を取っておけばよかったと後悔したものだ。

 翌年にはヒートウェイヴの新しいアルバム『セントラル・ヒーティング』が出たので、それも購入した。1979年になると、学校の友達はみんなブロンディやカーズ、そしてジャムという新人バンドに夢中になっていたが、ぼくはあくまで自分の好みにこだわった。つまりヒートウェイヴである。

 ぼくは自宅に友達を呼んでは、自分の考えを理解させようとした。つまり、これは他のどの音楽とも違うということだ。複雑なハーモニーやアレンジが施され、フックときたらサメでもひっかかりそうなほどに鋭く、コーラスは頭の中で延々と鳴り響き、夜も眠れなくなるほどだった。

 ぼくはあのグルーヴにすっかり夢中になっていた。その自覚もあった。まさしく恋に落ちたのであり、今なお覚めてはいない。

 あれほど惹きつけられた曲となると、他にはファンカデリック「ワン・ネイション・アンダー・ア・グルーヴ」か、マイケル・ジャクソン「今夜はドント・ストップ」くらいしかない。このようなシングル曲に惹かれて、ぼくはおこづかいを貯め、細々としたアルバイトをこなしては、レコード店で[それらの曲が入った]LPを購入した。

 マイケル・ジャクソンのアルバム『オフ・ザ・ウォール』の一曲目を聴いた日のことは今でも思い出せる。「今夜はドント・ストップ」のロングバージョンで、実に気に入った。だがその次の曲には、あやうく正気を失うところだった。曲が流れるなか、プレイヤーにおおいかぶさるようになり、ターンテーブルで回るレコードをしばらく見つめた。その2曲目は「ロック・ウィズ・ユー」というタイトルだったが、フックがヒートウェイヴを連想させるように思えたのだ。回るレコードを見ていると、曲名の下に括弧入りで記載されている作曲者名が判読できた。そこにはR. Temperton とあった。もしかしてこの人は、ぼくの心をつかんで離さないヒット曲の数々を書いた当人ではなかろうか。すなわち「ブギーナイツ」「オールウェイズ・アンド・フォーエヴァー」「トゥー・ホット・トゥ・ハンドル」「グルーヴ・ライン」といった名曲のことだ。だがそもそも、そんなことってありえるのだろうか。

 プレイヤーからレコードを外し、このTemperton なる人物の曲が他にも入っているのではと確認したところ、予見は的中した。タイトル曲もそうであり、さらに「ディスコで燃えて」という、ぼくに言わせればアルバムでいちばんの曲も彼によるものだったのだ。いずれの曲もサウンドに似通ったところがあり、また執拗に保たれるリズムは頭から消えてくれないのだった。こと、このアルバムに関しては、R. Temperton 作の三曲だけを聴くことがほとんどだった。周りにもしつこく薦めたせいでみんなを怒らせてしまい、またみっともない踊りのせいで部屋の床板を傷めてしまった。

 この頃には「ブルース&ソウル」という雑誌の熱心な読者になっていたのだが、ある号でこのテンパートンという男のインタビュー記事を見つけた。ぼくは他のページをいっさい構わず、即座にその記事に目をやった。そしてその日の残りを、ショックを受けたまま座って過ごすことになったのだ。信じられないほどすばらしいヒートウェイヴの名曲群を書いた男は、チャカ・カーンのいたルーファスというバンドや、ブラザーズ・ジョンソンにも曲を提供していたことを知った。だがとりわけ衝撃を受けたのは、彼がイギリス人で、しかもリンカンシャー州クリーソープスの出身だということだった。ぼくの自宅からそう遠くない場所なのである。

 70年代末には本格的にレコードを集めるようになり、使えるお金はすべてノッチンガムの黒人音楽専門のレコード店に落としていた。買うレコードも、ラジオで聴くのも、すべてアメリカの黒人音楽だった。そんなぼくが憧れていた存在がクリーソープスの出身だと知ったのだ。この大発見をぼくは学校で触れ回り、みんなをうんざりさせたのだった。誰にも構われなかったし、「ロック・ウィズ・ユー」と「オフ・ザ・ウォール」がマイケル・ジャクソンにとって途方もなく大きなヒットになった時にも信じてもらえなかった。学校で誰かがそれらの曲を歌うと、ぼくはそれが同一人物が書いた曲だと指摘してやるのだった。その返答といえば、違うだろ、というものだった。そんなはずがないというわけだ。

 それからはアルバムをアーティストではなく作曲家やプロデューサーで選ぶようになった。ジョージ・クリントンやバーナード・エドワーズ、ナイル・ロジャース、そしてロッド・テンパートンの名前があれば即座に手に入れ、自宅のプレイヤーに乗せたものだった。

 言うまでもないことだが、1983年当時、学校の生徒から、その友人、家族に至るまで、誰もが持っていたのがマイケル・ジャクソンのアルバム『スリラー』だった。そしてあの有名なタイトル曲を書いたのがロッド・テンパートンなのだ。ところが、あれから長い歳月が過ぎたというのに、その作者と、彼の功績が文章にされることがほとんどなく、個人的には不可解に思っていた。そもそも、彼は実在の人物なのだろうか。数々のヒットを生み出した人物の正体を隠すためにでっちあげられた、架空の存在なのではないだろうか。なにしろこの人物は、ブラザーズ・ジョンソン「ストンプ!」、ジョージ・ベンソン「ギヴ・ミー・ザ・ナイト」、クインシー・ジョーンズ「ラズマタズ」といった名曲の生みの親とされているのだ。

 1980年代末から90年代初頭になると、ロッド・テンパートンはほとんど活動をしなくなり、クインシー・ジョーンズのアルバム『Q'sジューク・ジョイント』にいくつかの新曲を提供するにとどまっている。ぼくの関心も別のことに移っていった。だがある日、初めてインターネットでウェブを使ってみた時のことだ。ダイヤルアップ接続でつなぎ、しばらくの間いろいろ試してみてから、ようやくのことで検索サイトにたどりついた。そこで初めて検索した言葉が、Rod Temperton だったのである。ぼくが知りたかったのは、このところの彼がどうしているのか、そして彼が書いた曲のうち自分が知らないものがどれほどあるのか、ということだった。

 ところが、信じがたいことに彼の情報は何ひとつ出てこなかった。それは単にこちらが技術に無知なせいでもなかった。そもそもネットでは彼は存在しないも同然だったのだ。そこでぼくが思いついたのが、本人に連絡を取り、ドキュメンタリー番組を制作して、BBCラジオに売り込むということだった。

 これまでの長い年月で、彼の音楽に強く心を動かされてきた者がぼくひとりであるはずがなかった。ハロウィンの日にラジオで「スリラー」が流れるたびに、この曲を書いたのはマイケル本人じゃなくてクリーソープス出身のイギリス人なんだよと人に講釈をしているのもぼくだけではないはずなのだ。

 ロッドを見つけ出そうとして数年が過ぎ、2005年になってようやく成功した。それを助けてくれたのが自分の制作会社を始めたばかりの友人、ニールだった。その頃、ロッドのことがネットのニュースサイトで小さく取り上げられていた。それは彼が自作曲の権利をロンドンにあるクリサリス・レコードに売却したことを報じるものだった。そして、ようやく念願の機会を得た。ロンドンの中心部、ピムリコにあるカフェで面会の約束を取り付けることができたのだ。明らかに、ロッドはそのあたりに住居を構えているようだった。

 ニールとぼくは約束の時間より早く着いたが、それから30分ほどして、ひとりの男が店に入ってきた。それはまさしく、30年前にヒートウェイヴのアルバムの裏ジャケットで目にした、ロッド・テンパートン本人だった。ぼくの心拍は恐ろしいほどに速まった。それから4時間半というもの、彼は座席で神経質そうに身体を動かしつつ、延々と薄いコーヒーを飲み、マルボロレッドを喫っていた(どこかで読んだ文章でぼくは、彼がチェーンスモーカーで、とりわけこの銘柄を贔屓にしているのを知っていた。もっとも後になって知ったのは、彼が当時禁煙したばかりということだった。この時はそうではなかったのだが)。

 ロッドはたびたび居心地悪そうにしていた。ぼくが彼について詳しく、彼の仕事についてこだわりがあったことにかえって警戒したようだった。「きみはぼくよりもずっとぼくのことを知っているみたいだね」と冗談を言っていた。彼の活動全体について話が及ぶと、こう漏らしていた。「実際のところ、作った曲はそれほど多くないんだ。幸い、いくつかの曲がヒットしたけどね」。そして、ほとんど無理強いしたようなものだったが、ドキュメンタリー番組を作ることを許可してもらった。「さほど興味を持ってもらえないと思うけどね。ぼくはそこまでの人間じゃないから」と言う彼に対して、ぼくは丁重に、そんなことないですよと応じた。

 ぼくたちはそのカフェに数時間いたのだが、誰もこちらを見たり、近寄ってサインを求めてきたりはしなかった。それでもぼくは思った。ここで何か飲んだり、ケーキを食べたりしている人々の誰もが、ここにいる偉大な男の書いた曲がだしぬけに店内に流れたなら、即座にそれが何なのか分かるはずなのだ。もっとも、彼の曲が流れることはなかったし、それで良かったのだ。そんなことになれば、本人は当惑のあまり、即座に席を立って退散しただろう。

 ニールにさよならを言って別れると、ぼくはそのままパブに入り、ずいぶん長いこと黙って立ちつくしていた。あのロッド・テンパートンに会ったということが信じられなかったのだ。彼の話し方はなぜか不思議なことに、保守党の元党首であるウィリアム・ハーグにそっくりだった。あくまでぼくの耳にとってだが。

 翌年になるとぼくは作業に取りかかり、それはやがて「The Invisible Man – The Rod Temperton Story」として完成した。その番組によってニールとぼくはソニー賞を獲得した。それはぼくの人生でもっとも誇らしい瞬間になった(授賞式で前の席にいたのは、ぼくにとってもうひとりのヒーローであるマーク・ラドクリフ[イギリスの司会者]だった)。ぼくはブリストルのテレビ局でプロデューサーやプレゼンターの仕事をしていて、デイリー・テレグラフ紙のコラムニストでもあった。日中はそうした仕事をこなしつつ、夜間にこつこつと作り上げた番組であり、まさしく愛情の結晶だった。苦労など何ひとつなかったのだ。

 それからは別の企画を手がけたのだが、その中にはアルバム『スリラー』やイアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズに関するドキュメンタリー番組もあった。そして、そうした仕事においても、ときおりロッド・テンパートンという名前が出てくるのだ。ブロックヘッズのメンバーであるチャズ・ジャンケル(クインシー・ジョーンズ「愛のコリーダ」の共作者でもある)とマズウェルヒルのパブでギネスを飲みながら彼のすぐれた発想力について訊いていた時も、ロッドの音楽が話題に上ったのだった。

 ぼくはロッドの新曲を心待ちにしていたのだが、ほとんどの場合は形にならないまま終わった。例外としてはジョージ・ベンソンが歌った「ファミリー・リユニオン」という曲があり、また2000年代初頭にはミーシャ・パリスがロッドと組んでいるという話をネットで見かけたりもした。だが実際のところ、彼はもう仕事などする必要がなくなっていた。なにしろ、10月31日[ハロウィンの日]に「スリラー」が世界中のラジオやパーティで流れるたびに、ちょっとした財産といえる金額が転がり込むのだから。

 そして2016年10月5日、メキシコで新しい生活を始めたばかりだったぼくのところに、たびたび電話があった。それはロッドに関する取材の申し込みだった。彼が亡くなったことが公表されたのだ。ぼくはイギリスやアイルランド、アメリカ、オーストラリアのラジオ番組に出演した。彼が音楽業界に与えたインパクトはまさしく世界規模のものだったのだ。

 ぼくが作ったBBCラジオのドキュメンタリー番組は今でもユーチューブで聴ける。ただひとつ、欠けていたのが、彼の人生と音楽についての本だ。ぼくとしては本書がその欠けた部分を埋めてくれることを願っている。また協力していただいた人々にも感謝したい。ニール・コーリングとマーク・グディヤーには一部の取材を担当してもらい、本書で引用した発言の多くが、その時に得られた内容を元にしている。

 使命を果たすには、ぼくもまた新たに取材をする必要があった。BBCの番組では話す機会が得られなかった人々のことだ。ぼくはこれまでにロッドと仕事を共にしていた多くの人々にメールを送ったが、その全員からただちに返答があり、本書の企画にも前向きに取り組んでくれた。取材の申し込みにも「この本に関わることができて光栄だ」というような言葉で、熱心に応じてもらえたのだ。

 その中で、突然ハービー・ハンコックのような人と電話で話をすることになったりもした(この時は震えながら電話をかける羽目になった)。ボブ・ジェームスやデレク・トランブルも同様だった。トランブルはヒートウェイヴの元メンバーで、80年代半ばに発表されたデイヴィッド・ボウイのアルバム『トゥナイト』で共同プロデューサーを務めた人物でもある。メールの返信で、トランブルはロッドのことを友人であり世話にもなったと説明してくれた。取材した誰もがそれと同じことを言っていた。ロッド・テンパートンはこの世界に、ぼくが知る限り極上の名曲群をもたらしてくれた人物だが、彼はまた、一緒に仕事をした相手は誰でも友人にしてしまうらしかった。そしてマイケル・ジャクソン、ジョージ・ベンソン、パティ・オースティン、ブラザーズ・ジョンソンといった人々に代表的なヒット曲を提供してもいる。

 ロッドは天才であり、頭の中で曲を完成させることができた。そのことは本書を読み進めるうちに分かっていただけることだろう。一方で謙虚な性格は終生変わらないままで、プライベートを大切にする人でもあった。亡くなったことが公表されたのは葬儀が終わった後のことである。

 本書は、あまりにも多くの人々の生き方を変えた、ひとりの男の物語である。そしてこれからも、彼の曲がラジオや街中で流れるたびに、人生を一変させられる人々が出てくることだろう。たとえばエアロメキシコの場合、長距離のフライトで着陸時の機内に流れるのは、ありきたりな無個性の電子音楽ではなく、「ロック・ウィズ・ユー」なのだ。

 本書は主に、ロッド本人のほか、彼と組んだ多くの才能あるミュージシャンたちの証言で構成されているが、その全員が彼と一緒に過ごした時間を大いに気に入っていた。

 筆者としては本書、ないし以前に放送されたBBCラジオのドキュメンタリー番組において、ご協力いただいた人々の全員に感謝したい。この本を書くのは実に楽しい経験だった。これを読んでくださる皆さんにとってもそうであれば幸いである。

 


『インヴィジブル・マン マイケル・ジャクソン「スリラー」を作った男ロッド・テンパートンの生涯』について

「彼は音楽の偉人だ!」BY クインシー・ジョーンズ——数々の世界的ヒット曲を生み出しつつも栄光を退けた伝説的ソングライターの素顔を明かすドキュメンタリー

「ロック・ウィズ・ユー」「オフ・ザ・ウォール」そして「スリラー」──マイケル・ジャクソンを歴史的なエンターテイナーへと押し上げた名曲をはじめ、R&Bを中心に数々のヒットを生み出し、1970〜80年代の音楽界に多大な影響を与えた伝説のソングライター、ロッド・テンパートン。

 クインシー・ジョーンズと共に、世界を熱狂させた名曲は、いかにして生まれたのか?
 偉大な功績をあげながらも、なぜ彼は徹底して表舞台から姿を消し続けたのか?

ロッド・テンパートンのストイックな楽曲制作への姿勢と、その驚異的な創作のプロセス、そして長年謎に包まれていた“インヴィジブル・マン(見えざる男)”の人生を解き明かす。

 

書誌情報

書名:インヴィジブル・マン マイケル・ジャクソン「スリラー」を作った男ロッド・テンパートンの生涯
著者:ジェド・ピットマン
訳者:城石容治
仕様: A5判/ハードカバー/346ページ
価格:¥3,080円(本体¥2,800円)
ISBN:978-4-910218-06-9
発売日:2025年7月
発行元:ジーンブックス/株式会社ジーン

書誌ページはこちら
https://books.jeane.jp/books/the-invisible-man/

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