夢と自由とステージ裏を綴った、ロックフォトグラファーの回想録
8/26発売の『ライト・プレイス ライト・タイム あるロック・フォトグラファーの回想』は、1970年代からロックフォトグラファーとして数多くのミュージシャンたちを撮影してきたボブ・グルーエンの初の自伝です。イギー・ポップに「ボブの最高の写真はオフステージを撮ったやつさ」と言わしめたほど、ロックレジェンドたちと親密に交流した著者の、半世紀にわたる、夢と自由の日々を回想したエピソード集。250点以上の写真を掲載した本書は、ロックの歴史を語るための永久保存版です。
本書の「イントロダクション」では、収録エピソードの概要を著者の言葉でお楽しみいただけます。
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『ライト・プレイス ライト・タイム あるロック・フォトグラファーの回想』
イントロダクション
ボブは究極のバックステージ・パスを持っていた。
写真を撮る すべてのバンドのバックステージに入り込んでいたんだ。
彼がこれまで経験してきたことの数々を、きみは想像できるかい?
――アリス・クーパー
1979年のある晴れた日、私はライオットのメンバーといっしょに、すし詰め状態の小さなレンタカーに乗っていた。彼らは若手のヘビーメタル・バンドで、次の公演先へ向かうため、テキサス州を横断していたのだ。
そのとき、私はロック・フォトグラファーとして経験してきたことの数々を彼らに話して聞かせていたのだが、ドライバーは私の話を聞くことに集中しすぎるあまり、ハイウェイの出口を通り過ぎてしまった。次の出口は510マイルも先にあったので、このちょっとしたミスのおかげで走る距離が100マイル、時間にして90分ほど延びることになった。しかし、そんなことを気にする者は車内にはひとりもいないようだった。彼らは口をそろえてこう言うのだ、「もっといろんな話を聞かせてくれよ、ボブ」
私の経験談がこれほど人を夢中にさせるなんて、それまでは思ってもみなかった。そして、そういう経験が自分にゴマンとあったんだということも。
1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルで初めてコンサート写真を撮った話。ボブ・ディランがエレキギターを使ってみんなに衝撃を与えた、あの有名な出来事があった年だ。それからウッドストック・ミュージック・フェスティバルでキャンプをした話。アレサ・フランクリンのライブでジョンとヨーコと出会い、ふたりと仲良くなった話。以後、私は彼らのパーソナル・フォトグラファーになった。霧が深くて道路もよく見えない中、ティナ・ターナーのジャガーを運転してパシフィック・コースト・ハイウェイを走った話。CBGBでニューヨークのパンク・シーン誕生に立ち会った話。
サルバドール・ダリが世界初の動くホログラムをアリス・クーパーと作るようすを記録した話。ザ・フーのドラマーでワイルドな行動で知られたキース・ムーンと仲良くなった話。いつもけばけばしかったニューヨーク・ドールズのツアーに同行した話。残念な結末を迎えたセックス・ピストルズのアメリカ・ツアーで彼らのバスに同乗した話。そしてレッド・ツェッペリンのメンバーがツアー・ジェットの前でロックの帝王のようなポーズをきめた写真を撮った話。
これらは、1979年にライオットの連中とテキサス州を移動していたときに車内で語ったうちのほんの一部で、私はその後、さらに多くの経験を積み重ねてきた。ジョン・レノンが銃撃されて亡くなるわずか二日前、彼の希望に満ちた話にじっくりと耳を傾けたこと。日本で一年近く暮らして現地のロック・シーンに精通したこと。グリーン・デイのプライベート・ジェットに同乗したこと。ジョー・ストラマーを我が家に泊めてカウチに寝かせたこと。
ロック・ファンであればほとんどの人が私の写真を知っていると思う。長年、アルバム・ジャケットにポスター、本や雑誌、アート・ギャラリーや美術館で私の写真を見てきたはずだ。中にはアーティストの代表的な一枚になったものもある。ニューヨーク・シティとプリントされたTシャツを着ているジョン・レノン。ビルの屋上でエンパイア・ステート・ビルをバックにしたザ・クラッシュ。CBGBの前に立つラモーンズ。ステージ上で躍動するティナ・ターナー。私のアーカイブに収められた数千枚の写真がとらえているのは紛れもなくロックンロールの歴史であり、半世紀以上に及ぶロックの歴史が、その一枚一枚の中に刻まれているのだ。
とはいえ、それらの写真が伝えているのは、私が実際にこの目で見たものに限られている。本書は、私がひとりの人間としてどのように成長してきたかを綴ったものだ。将来の夢など特に持っていなかった子供時代に始まり、カメラと出合ったことで瞬間を切り取ることに情熱を傾けるようになり、ついにはプロのフォトグラファーとして数十年にわたり、多くのミュージシャンの変転を目撃することになった。その中には、現れてすぐに消えていった者、成功をつかみそこねた者、あるいは自分でも想像しなかったほどの大成功を収めた者もいる。
私にとっては、これは単なるロックンロールの本ではない。これは自由についての本なのだ……自分の感情をめいっぱい表現する自由についての。私の関心は、昔からずっと、その瞬間に漂っている自由や情熱や欲求を最大限に感知し、それを伝えることに向けられているのだ。
あるときラモーンズのトミー・ラモーンが、成功できるロックバンドを作るためには「イメージとサウンドが融合していないと駄目」と言ったことがある。『プリーズ・キル・ミー』[パンクロックの歴史を綴ったノンフィクショ ン]のパンク・ライター、レッグズ・マクニールも同意見で、「最高の曲も必要だし、それに合ったカッコいいイメージも必要」だと言っている。
スタイル、得意技、コンサート、曲など、さまざまな要素があるけれど、ロックンロールにはイメージも必要だ――ギターやマイクが欠かせないのと同じくらいに。それはこのYouTube 時代よりもはるか以前、まだインターネットなんか存在すらしておらず、『ローリング・ストーン』が創刊されるもっと前からずっとそうだった。そのイメージが、ローカル新聞や音楽雑誌、アルバム・ジャケットやコンサートのポスターなどを通じて、多くのファンをコンサートに集める手助けをしてきたわけだ。
私にとって、私の写真はただの写真ではなく、被写体であるアーティストにしても、ただステージ上にいるときの姿だけとは限らない。私はひとりのジャーナリストとしてロックというライフスタイルを傍観していたというより、自分自身でそれを生きていたのだ。音楽業界にいる多くの優れたアーティストたちと仕事をし、旅をし、友人になれたのは、本当にラッキーだった。言ってみれば、私にとって彼らはファミリーのようなもの――ワンダフルで、クレイジーで、めちゃくちゃクリエイティブで、ときにははた迷惑なこともある、大きなファミリーなのだ。
そして、どんなファミリーでもそうだけれど、私たちにも、いいときもあれば悪いときもあった。喜びと悲しみを何度も経験して、結婚式や誕生パーティ、そして葬儀にも出席してきた。
私を元気づけてくれた大事な友人たちもたくさんこの世を去っていった――ジョン・レノン、ジョー・ストラマー、ジョルジオ・ゴメルスキー、ジョーイ・ラモーン……あまりに多すぎて、ここには書ききれないほどだ! しかし、新しい友人も同じくらいたくさんできた――ビリー・ジョー・アームストロング、スープラ、そしてローワーイーストサイドの非公式市長ことジェシー・マリン。
彼らは私のファミリーなので、私が彼らについて語る話は、世間でよく耳にするようなものとは異なっている。私が知っている彼らは、非常に才能豊かではあるけれど、血の通ったごく普通の人間なのだ。フォトグラファーという仕事のおかげで、私は彼らを間近に眺めることができた。本書の読者のみなさんにそれが伝わってくれることを願っている。
ジョンとヨーコの息子であるショーンの写真を最初に撮ったのも私だった。ティナ・ターナーといっしょに買い物に行ったこともあるし、彼女が子供たちのために夕食を作るのを見ていたこともあった。セックス・ピストルズが解散した直後、ジョニー・ロットンといっしょにCBGBのバーカウンターに座っていたことも。グラスゴーで迎えた1979年の大みそかに、デビー・ハリーが新年のキスをしてくれたことは一生忘れないだろう。
若い連中が「自分の夢を追いかけたい」と言うのをよく耳にする。この本を読めば、自分の夢を追いかけることが私にとってどんなことを意味していたか、わかってもらえると思う。それは、自分を信じ、安定を捨て、チャンスに賭けることだ。つまり、広い世間に出て自分の人生を生きるのだ――思う存分に。
私の夢は極めてシンプルなものだった。いい写真を撮り、面白い場所へ行き、魅力的な人たちに出会いたいということだ。あるとき、セックス・ピストルズのマネージャーだったマルコム・マクラレンと私に、誰かがこんな質問をしたことがある。「どんな計画を立てて成功を手に入れたんですか?」私たちは同時にこう声を上げたものだ。「計画だって?」
マルコムの次の言葉が、私たちの姿勢を的確に言い表している。「夜寝る前に、翌日の計画を立てる。でも、次の朝起きると電話が鳴って、その計画が変わる。私たちがやるべきなのは、その日一日を精いっぱいに生きることさ。毎日毎日それを続けていくんだ」
毎日、計画を持たないまま、思いがけない変化に対応していく。そんなふうに生きていくには勇気が必要だ。でも、自分の夢を追いかけたいのであれば、それをやらないといけない。大事なのは、適切なタイミングで適切な場所にいること、そして、そこでいい仕事をやってのけることだ。こんなことは計画を立ててやれるものではない。必要なのは自分の直感に従って、済んでしまったことはグダグダ言わないことだ。
そうやって私はこれまでずっと生きてきたのだ。
1950年代のロングアイランドで、典型的な郊外の家庭に育った私は、テレビでエルヴィスを観て、ラジオの『スウィンギン・スワレイ』でロックンロールを聴いた。これはマレー・ザ・Kがやっていた深夜放送で、両親は隣の部屋でぐっすり眠っていたが、私はベッドの中で頭からふとんをかぶり、この番組に耳を傾けていたのだ。
私が情熱を注いだふたつのこと、音楽と写真に心を奪われたのは、ほとんど同時だった。五歳のころには、もう私は母といっしょに何時間も暗室の中で過ごしていた。弁護士の母がアマチュア写真家だったのだ。私が初めて自分のカメラを手に入れたのが8歳のとき、そして自分の撮った写真が初めて地元の新聞に載ったのが13歳のときだった。
それでも、我が家では写真はあくまで趣味と考えられていたし、広い世間を見渡してみても、ロック・フォトグラファーなんて職業はまだ影も形もなかった。両親は、私が大学を卒業して、ビジネスマンとして安定した職に就き、家庭を築いて、アメリカン・ドリームを実現することを期待していた。ところが、私は19歳で大学を退学すると、1965年にグレニッチヴィレッジへ引っ越してしまったのだ。
仕事のプランなんて何もなかった。私のプランは「ターン・オン、チューン・イン、ドロップ・アウト」[当時のカウンターカルチャーのスローガン]することであり、ロックバンドとともに生きていくことだった。だから私はそれを実行したのだ。
ニューヨークにやってきた私はまだ世間知らずの若者で、いろいろな冒険を通じてこの街の流儀を身につけようと意気込んでいた。懐具合は乏しかったけれど、そのころの私は25セントのホットドッグと1ドルのワインがあれば生きていけたのだ。
私がフォトグラファーになった当初は――実際のところ、私のキャリアの大部分でも似たようなものだったが――フォトグラファーというのは音楽業界の下っ端で、イベントの写真を撮って提供するのがせいぜいの、取るに足らない存在だった。仕事の電話がかかってきても、私が留守にしていて電話に出なければ、次のフォトグラファーに仕事が回るだけ。だから競争は熾烈だった。
ひとつの出会いと機会に恵まれるごとに、私のキャリアは前進していった。コンサートに出かけても、それが終わってからクラブをいくつも回って、何か面白いことはないかとチェックしていた。打ち上げの二次会に顔を出したり、深夜クラブに足を運んだりすることもあったが、どこへ行くにもカメラだけは手放さなかった。
そして日の出とともにハドソンリバーの自宅に帰り、暗室に直行して何本ものフィルムの現像に取りかかる。少し仮眠を取ってから写真をプリントして、それを持って雑誌の編集部やレコード会社を回るのだ。そして夜になると、また街に出かけて同じことの繰り返し。こんな生活を私は何十年も続けてきた。夢を追いかけるのも楽ではないのだ。
私の成功の大半は、私が出会って写真を撮らせてもらった数多くのミュージシャンが、私のことを友人のように思ってくれたおかげだ。ヨーコ・オノは私についてこんなふうに言っている。「彼は思いやりのある人だと、ジョンとわたしは感じました。あのころのフォトグラファーはみんな図々しかったけれど、彼は違っていたんです。彼の写真には彼の人柄がにじみ出ていて、そこが彼の写真の魅力になっているんです」相手が写真を撮ってほしくなければ、私はカメラを構えることもないし、相手にとやかく指示をすることもない。
私の代表作の中には、楽屋やパーティ、車の座席や街なかで撮ったミュージシャンの写真がいくつも含まれている。そんな写真が私に撮れたのは、いつもミュージシャンの近くにいたからで、そうしていれば、決定的瞬間をとらえて真実を伝えるチャンスにも恵まれようというものだ。それに、彼らのほうも私の前ではリラックスして、ありのままの姿を見せてくれたのだった。
「ボブの最高の写真はオフステージを撮ったやつさ」と言ったのはイギー・ポップだ。「そういう写真が重要なのは、写っている連中の本当の人間関係が記録されているからだ。彼らが本当はどんな人間かや、彼らがどんな駆け引きをしているかといった、いろいろな情報を得ることができる」
私の写真には、音楽やそれを作る人々に対する私の思いも写っている。技術的には必ずしも完璧とは言えないかもしれない。ときにはピントが甘かったり、被写体がぶれたりしていることだってある。しかし、フィーリングはクリアだ。私がとらえたいのはその瞬間のスピリットやパッションなのだ。
いまや私も齢よわい七十代に足を踏み入れてしまったけれど、相変わらず毎晩のように出歩き、酒が入っていなくてもいい気分で、新旧さまざまな友人と交流し、写真を撮っている。長い年月のあいだに私が変わったことは自分でもよくわかっている。だが、写真を撮り始めたときに持っていた情熱はいまも変わらず私の中に生きているし、仕事を続けること、写真を撮り続けること、そして自分が生きるこの世界を記録し続けることに対する意欲は、まったく衰えてはいないのだ。
いまでも、撮ったばかりの写真を目にするときは、若造だったころと同じように興奮する。そして、これぞという場面に出くわすと、いまだにアドレナリンが噴き出してくるのを感じるのだ――「いただきっ!」
発売記念!32章丸ごと試し読み公開中
ボブ・グルーエンがロックフォトグラファーとして多くのミュージシャンたちと親交を深め、キャリア絶頂期の1984年からのエピソード。日本からはシーナ&ザ・ロケッツも登場。アメリカ、イギリス、そして日本のロックスターたちに愛されたボブ・グルーエンが語る当時の思い出を、たくさんの写真と共にじっくりお楽しみください。
『ライト・プレイス ライト・タイム あるロック・フォトグラファーの回想』
世界で最もロックを撮った写真家、ボブ・グルーエン初の自伝。250枚超のロックレジェンドたちの写真を掲載した永久保存版!
ジョン・レノン、ボブ・ディラン、ミック・ジャガー、エルトン・ジョン、セックス・ピストルズ、キッス…伝説的ミュージシャンたちとともに1960年代から半世紀以上を歩んできたロックフォトグラファー、ボブ・グルーエン初の回想録『ライト・プレイス ライト・タイム あるロック・フォトグラファーの回想』が遂に日本上陸。
本書では、被写体となったアーティストとの逸話をはじめ、ロックの黎明期より活動してきた著者ならではのエピソードが満載。1970年代よりたびたび訪れた日本の思い出なども存分に語られます。
カラー多数含む250点超の写真を掲載した永久保存版です。
【書誌情報】
書名:ライト・プレイス ライト・タイム あるロック・フォトグラファーの回想
著者:ボブ・グルーエン/デイヴ・トンプソン
訳者:浅尾敦則
仕様: A5判(210×148mm)/ソフトカバー/500頁
価格:3,850円(本体3,500円)
ISBN:978-4-910218-07-6
発売日:2024年8月
発行元:ジーンブックス/株式会社ジーン
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