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【試し読み】『ライト・プレイス ライト・タイム あるロック・フォトグラファーの回想』
一章分まるごと試し読み

出典『ライト・プレイス ライト・タイム あるロック・フォトグラファーの回想』

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8/26発売!ロック・フォトグラファーの第一人者が回想する、ロックスターたちとの夢と自由の日々

ライト・プレイス ライト・タイム あるロック・フォトグラファーの回想』は、1970年代からロックフォトグラファーとして数多くのミュージシャンたちを撮影してきたボブ・グルーエンの初の自伝です。イギー・ポップに「ボブの最高の写真はオフステージを撮ったやつさ」と言わしめたほど、ロックレジェンドたちと親密に交流した著者の、半世紀にわたる、夢と自由の日々を回想したエピソード集。250点以上の写真を掲載した本書は、ロックの歴史を語るための永久保存版がついに発売!
発売を記念し、一章分まるごとお試し読みを公開します。

試し読みいただくのは、本書に収録された全33章の中の32章。ボブ・グルーエンがロックフォトグラファーとして多くのミュージシャンたちと親交を深め、キャリア絶頂期の1984年からのエピソード。日本からはシーナ&ザ・ロケッツも登場。
アメリカ、イギリス、そして日本のロックスターたちに愛されたボブ・グルーエンが語る当時の思い出を、たくさんの写真と共にじっくりお楽しみください。

▼イントロダクション全文試し読み公開中!
https://books.jeane.jp/article/rightplacerighttime_introduction/

『ライト・プレイス ライト・タイム あるロック・フォトグラファーの回想』試し読み

32 Stars in My Eyes 私が見たスターたち

ショーン・レノンとアンディ・ウォーホル ── マーク・ロンソンとショーン ──
チャック・ベリーとフィル・スペクター ── ロニー・ウッドとリチャード・ルイス ──
ジョー・ストラマーと友人たち ── シーナ&ザ・ロケッツ

 1984年10月、ショーン・レノンが九歳になった。ヨーコはショーンと、生きていれば44歳になるジョンの誕生日を祝うパーティを開いて、アーティストやミュージシャンの友人を招いた。イギー・ポップ、フィル・スペクター、ロバータ・フラック、アンディ・ウォーホル、キース・ヘリングらの顔も見えたなか、途中で気まずい空気が流れる瞬間があった。スペクターがイギー・ポップに面と向かって、彼の音楽もバンドも好きじゃないし、全然よくないと言い放ったのだ。

だから、イギーが彼を蹴っ飛ばした。

「ひどいじゃないか」蹴られた脚をさすりながらフィルが言うと、イギーが彼を見据えて答えた。「あんたはおれを二度攻撃したけど、おれは一度だけだぜ」

パーティに来たすべての人の中で、最もショーンの興味を引いたと思われるのがアンディ・ウォーホルだ。その夜、ショーンが大きなハートの絵に「Sean loves Andy(ショーンはアンディが好き)」という意味の言葉を添えて、それに「ショーン・レノン」とサインしてアンディに渡した。そして、自分のために何か描いてくれとアンディにせがんだ。すると、アンディも大きなハートの絵を描いて、それに「Andy loves $ean(アンディはショーンが好き)」と、ショーンのSを$に変えて書き込んだ。

そして「アンディ」とサインしてショーンに渡すと、ショーンはそれを突き返して、「これじゃどのアンディだかわからないよ。ちゃんとアンディ・ウォーホルとサインしてよ」と言ったので、私は驚いた。まだ9歳なのに、なんて頭のいい子なんだろう!

ディナーの後、全員がリビングルームに移動した。ヨーコはそのリビングルームに、アールデコ調の高価な白いビンテージチェアを二脚置いていたのだが、その片方のアームの上で、ショーンとアンディが油性マーカーで紙ナプキンに絵を描いていた。ヨーコは、白い椅子のアーム部分にマーカーのインキが染み込んでいることに気がついた。そのとき彼女が何を思ったか、私には想像もつかないが、彼女はまるでそれに気づかなかったかのように目をそらすと、私にこう尋ねた。「ショーンが迷惑になるようなことをやっていない?」

私がショーンに目をやると、そのときはもうペンを持っていなかった。「別に」と私は答えた。「でも、ショーンの友達のほうがやってるかも」実は、アンディがショーンとおしゃべりをしていることが私には驚きだった。彼は普段ほとんど口をきかないのだ。私がそのことをヨーコに話すと、彼女が大笑いした。「それはたぶん、アンディがようやく自分のレベルに相応しい年齢の子を見つけたからね」

このころ、私はヨーコと次第に親しくなっていった。腰を据えて何時間も話し合った夜も多かった。ジョン・レノンが最後に私に語ったことのひとつが、ヨーコはいつも正しいので、彼女の話には必ず耳を傾けるということで、それが本当だったことが私にもわかったのだ。彼女は新しいアート・プロジェクト、曲作り、レコーディングなどで、常に多忙を極めていた。私は彼女が住むダコタハウスを頻繁に訪れるようになり、ときにはショーンのために音楽カセットを持っていくこともあった。ヨーコや彼女の仲間はロックンロールとブルースの歴史にあまり詳しくなかったので、私はショーンが知っておいたほうがいいと思う音楽をジャンルを問わず聴かせていた。マイルス・デイヴィスやフェラ・クティ、さまざまなレゲエのレコードなどだ。そして彼は優れたミュージシャンに成長してゆき、手にした楽器をほとんど何でもプレイできるようになった。現在、彼が私を人に紹介するときは「叔父さん」ということになっている。

1984年、ヨーコは私を伴ってヨーロッパへ行き、何度かコンサートを行った。プレイしたのはブダペスト、リュブリャナ、ロンドンで、大きな会場でやることもあった。彼女を尊敬する若者たちで満員になった会場で人々がヨーコの音楽をエンジョイしているのを見るのは最高だった。

ニュー・ミュージック・セミナーは規模が大きくなっており、私の関わり方も、マルコム・マクラレンが講演を行った第一回以降、回を重ねるごとに大きくなって、いまでは公式フォトグラファーという立場になっていた。つまり、毎晩あちこちを駆け回って、マンハッタンにある40の会場でプレイする400組ほどのバンドの中から、できるだけ多くのバンドの写真を撮らなければならなかったのだ。よそからやってきた人たちは、バンドが出演しているクラブが40もあることに興奮していたが、私はそれらのクラブが年中営業していることを知っていた。唯一の違いといえば、セミナー週間中はほとんどのバンドに広報担当者がついていることだ。

毎日仕事を始める前に、私はどのようなルートで会場を回るか計画を立てた。ここでこのバンド、あそこであのバンド、あっちへ行ってあのバンドを撮ってからまた最初の会場に戻って別のライブを撮り、それから急いでアップタウンに行ってあのバンドを撮る、といった具合に。そして、私はこういうことが得意中の得意なのだ。

会場の外に車を停め、必要とあらば二重駐車をして会場内に駆け込んでいく。車を移動させる必要がある場合に備えて、車内にアシスタントを待機させておくことも忘れない。私は4、5分のあいだにできるだけ多くの写真を撮ると、また走って外に出て、車に乗って次の会場に向かう。これを一晩に10回から12回ほど繰り返すのだ。

左からキース・ヘリング、アンディ・ウォーホル、ショーン・レノン ニューヨーク・シティ ダコタハウス 1984 年10月9日

マーク・ロンソンとショーン・レノン ニューヨーク・シティ 1991年7月

どのバンドを撮影するかは主にセミナーの音楽ディレクターが決めていたが、私が自由に好みのバンドを撮影することもできた。そして、1990年代初めの2、3年は、ショーンと彼の友人のマーク・ロンソンのふたりに、撮影するバンドを推薦してもらっていた。  そのころショーンは15歳になっていて、ある日、友人のマークと私の車に同乗してバンドを観に行きたいと電話をかけてきた。ニュー・ミュージック・セミナーをめいっぱい経験してみたいというのだ。彼らはすでにパスを購入していたが、列に並んで待つのは気が進まないと言うので、私は彼らの頼みを聞き入れ、車に同乗させて連れて行くことにした。

マーク・ロンソンは、いまでこそ世界で最もよく知られたプロデューサー兼DJのひとりになっているが、当時はまだ15歳で、ただの無名の少年に過ぎなかった。でも私は、もし音楽の生き字引というものが存在するとすれば、マークがそれに違いないということがすぐにわかった。どの会場に入っても、彼はバンドメンバーの名前だけでなく、彼らが過去にどのバンドでプレイしていたかまで知っていた。音楽性や経歴を熟知していたのだ。何度か彼に、私のリストに入っていないバンドを観たいので寄り道をしてもいいかと言われたことがあって、その会場へ行くたびに私は、彼がそう言ってくれたことを感謝した。彼の目に狂いはなかったのだ。というわけで、翌年のセミナーでもショーンからまたいっしょに行きたいと頼まれた私は、こう返事をした。「マークを連れてきてくれたらいいよ」

1986年、ロックンロールの殿堂の第一回授賞式がウォルドルフ=アストリア・ホテルで開催された。初期のロックンロールの殿堂は、1950年代から1960年代初めのアーティストが殿堂入りするか、あるいはプレゼンターとして登場しており、私はそのステージで数多くのレジェンドを目にすることができた。子供のころから聴いて育った人もいれば、いっしょに仕事をしたことがある人もいた。チャック・ベリー、ボ・ディドリー、アイク・アンド・ティナ・ターナー、それにシレルズ。

私だけでなく、ほかの多くの人もそう思っているに違いないと確信しているが、初期の殿堂授賞式でいちばんの見ものだったのは、自然発生的なジャムセッションでイベントを締めくくっていたことだ。バンドリーダーのポール・シェーファーが曲名をコールすると、みんながそれに参加した。殿堂入りしたばかりのアーティストだけでなく、その場に居合わせた過去の殿堂入りアーティストも。司会をしていたのはビル・グラハムで、私は彼が観客のほうを指さし、たまたま来ていた伝説のアーティストをステージに呼び出して参加させるのを、何度か目撃したことがある。

これほど楽しい音楽の祭典だったので、その雰囲気は会場にいた全員に影響を与えていた――中には酔っぱらって、自分も参加しようと突然思い立ち、エリック・クラプトンの隣でギターを弾き始めたレコード会社のお偉方もいたが、いつものようにビルが、有無を言わせず、だがあくまで紳士的に、ステージからお引き取り願った。しかし、人々が本当に羽を伸ばせたのは、授賞式がすべて終了した後のことだった。

私にとっては、このような初期の数年間がロックンロールの殿堂の黄金時代であって、現在のようにテレビのスペシャル番組になってからは、ショー全体がリハーサルを重ねてお膳立てしたものになってしまった。誰が殿堂入りするかについては、毎年激しい議論が巻き起こる。おそらく、本書の読者のみなさんも全員、古くはロックンロールの初期にまでさかのぼる、殿堂に縁がなかったお気に入りのアーティスト、というのがいることだろう。私はクリーブランドにあるロックンロールの殿堂博物館を訪れ、音楽が自分の人生にどれほどの影響を与えたか、わが子に説明している親たちの姿を見るたびに、この殿堂の価値を実感するのである。

もうひとつ、初期の殿堂授賞式のハイライトだったのが、アレン・クラインがフィル・スペクターと主催する打ち上げパーティで、ウォルドルフのペントハウスで開かれていた。アレンは必ず、おいしい料理がふんだんに並ぶようにしていたが、私が到着するころにはいつもキャビアがなくなっていた。ドリンク類も豊富にあったし、ジャムセッションが行われるのも恒例だった。あるとき、フィル・スペクターとチャック・ベリーが一台のピアノの前に並んで座って、いろいろな曲をメドレーで弾き始めたことがあった。たちまち、会場の全員がそれに加わって、私の隣にも、フィル・スペクターとチャック・ベリーに合わせていっしょにうたっている男がいたのだが、ふと気がつくと、それがピーター・ウルフだった!

1987年、私はまた日本へ舞い戻っていった。このときは『トーキョーポップ』という映画の仕事だ。この年の初め、かつてフィルモアがあったビルで開かれたパーティに顔を出した私は、そこでフラン・クズイという女性に出会った。見憶えがあるとは思ったが、どこの誰かはわからなかった。彼女と話をしながら懸命に思い出そうとしていると、彼女がこれから撮り始める映画の話題を持ち出した。ニュージャージー出身の女性が東京に行ってロックバンドに加わるというストーリーだ。

おれを雇ってくれよと、私は冗談めかして言ってみた。ニュージャージー生まれの女性のことも、ロックンロールのことも、東京のことも、よく知っていたからだ。すると彼女が、その件についてディナーを食べながら話し合うことを提案してきた。その席でもまだ、私は彼女とどこかで会ったことがあるという気がしてならなかったので、高校時代に住んでいた町を訊ねてみた。

「グレートネックよ」

で、通っていた高校は? サウス。私と同じ高校だ。しかも同じ時期に。でも、当時の彼女はフラン・クズイではなく、フラン・ルーベルという名前で、私もボブ・グルーエンではなかった……そのころはロバート・グルーエンだったのだ。フランが言った。「オー・マイ・ガッ、あなた、あのカメラおたくだったのね!」数日後、彼女から電話があって、私をスチル・フォトグラファーとして雇うことを告げられた。三月、われわれは東京に飛んで仕事を開始した。

フィル・スペクターとチャック・ベリー
ニューヨーク・シティ ウォルドルフ=アストリア・ホテル 1994 年1月19日

左からキャリー・ハミルトン、フラン・クズイ、田所豊[現ダイアモンド☆ユカイ] 東京 1987年5月

ホテルの現像道具類
東京 1987年

主人公のウェンディを演じるのはキャリー・ハミルトンで、そのほかの出演者はミュージシャンも含め、ほとんどが日本人だった。私の友人たちも何人か――ユウヤも、ガンさんも――小さな役で出演しており、私は素晴らしい時間を過ごすことができた。とはいえ、仕事自体は過酷なもので、朝の六時から深夜にまで及んだ。そして、私はそれからホテルの部屋に戻り、バスルームにしつらえた即席の暗室でフィルムを現像した。

映画の撮影現場での仕事がとても楽しかったので、その数年後、またフランから電話があって、彼女の次回作でスチルを担当しないかと訊かれたときも、私は躊躇しなかった。われわれが『バッフィ/ザ・バンパイア・キラー』に取りかかったのは1992年の春で、フランの計画では、撮影は低予算でスタートするものの、彼女がコンタクトを取っている映画会社が途中経過を見れば必ず支援してくれて、そうすれば予算もずっと大きくなり、映画ユニオンで定められた賃金がもらえるはずだった。

彼女は熱意と自信にあふれており、そのムードは周囲にも伝染していった。私もたちまち、ニューヨークを離れてハリウッドへ移り住み、映画の世界で新しいキャリアを築く自分の姿を思い描きながら、ローレル・キャニオン周辺の物件を車で見て回るようになった。その時点の私の稼ぎでは、それらの物件の地下室すら借りることができなかったが、もしユニオンに加入できれば、成功することも大いに期待できた。

フランが宣言したとおり、彼女はこの作品を支援してくれる映画会社を見つけてきた。その会社がこの映画を世界中に配給して、スタッフも全員、映画ユニオンに加入が認められるという。しかし、彼女は私を個別に呼び出して、ひとつだけ問題があると言った。契約の話は確かにあるのだが、運の悪いことに、作品のプロモーションを受け持つ広報担当者のボーイフレンドが映画のスチル・フォトグラファーで、もし彼女のボーイフレンドに仕事が与えられなければ、『バッフィ』はサポートを受けることができないと、その広報担当者に告げられたというのだ。

フランに選択の余地はなかった。私はお払い箱となり、映画は私抜きで続けられることになった。この映画が1992年に公開されたとき、プロモーションに使用された写真の大半が私の撮影したものだったことがわかった。その話を聞いて私は怒り心頭だった。私はすべての仕事をこなしていたのに、ローレル・キャニオンに移り住む夢は泡と消えたのだ。私は映画ビジネスが大嫌いになった。

とにかくハリウッドを離れて家に帰りたかった。私が最後のディナーを食べに行こうと思っていると、突然電話がかかってきた。受話器を取るとビル・ジャーマンだった。何年も前から知っている男で、『ベガーズ・バンケット』の運営を行っていた。『ベガーズ・バンケット』というのは、ローリング・ストーンズの専門誌の中では最もよくできているものだった――なにしろバンドのメンバーでさえ、ほかのメンバーの動向が知りたいときはこの雑誌をチェックするほどなのだ。

ビルは、ロニー・ウッドがハリウッドでニューアルバム『スライド・オン・ディス』の試聴パーティを開くので、私も顔を出してはどうかと言ったが、私はもぐり込める自信がなかった。ハリウッドはニューヨークではない。ニューヨークと違って、ここの人たちは私のことを知らないのだ。それでも、試してみると私は答えた。

会場に到着したわれわれが奇妙な二人連れに見えたことは、私も認めざるを得ない――私の連れが鮮やかなピンクのバイカー・ジャケットといういでたちなのだから。守衛のいるゲートへ歩いてゆき、招待者リストで確認するため、守衛がわれわれの名前を訊ねようとしたとき、ゲートボックスの電話が鳴った。彼はわれわれを待たせたりせず、通過しろと言うように手で合図をした。

中に入っていくやいなや、ロニーが私に「写真を頼む」と言ったので、彼と友人たちの集合写真を撮った。その最中に、私の知らない男がそっと近づいてきて、「いま撮った写真を売りたいなら、月曜日に私のエージェントに電話してくれ」と言って名刺をくれた。

私はその名刺に目もくれなかった。「いや、それよりも、もしそちらのエージェントが私の写真を買いたいというのであれば、私に電話するよう伝えてくれ。ニューヨークにいるから」と言ってこちらの名刺を渡すと、それを見た男が大声を上げた。「オー・マイ・ガッ、ボブ・グルーエンじゃないか! 私の友人は毎年、誕生日にあんたの写真をプレゼントしてくれるんだよ」

彼の家にはロニー・ウッドの絵と私の写真、その二種類のアート作品しかないのだと説明してから、彼が自己紹介をした――リチャード・ルイスというコメディアンだった。その後、彼に写真を送る準備をしていた私は、ほかに欲しい写真があればと、私の全作品カタログのコピーも同封して送った。

実際のところ、欲しい写真はありすぎるほどあって、「それを全部飾るだけの壁がうちにはないんだよ!」とリチャードは言った。それでも彼は、8×10の写真を20枚ほど購入したいとのことで、それらの写真をおしゃれな革のポートフォリオに収めて、この世に一冊しかない、彼だけのオリジナル・ボブ・グルーエン・フォトアルバムにするのだと言った。

リチャード・ルイスとロニー・ウッド
ロサンジェルス 1992 年3

左からジョシュ・チューズ、ジム・ジャームッシュ、マット・ディロン、ジョー・ストラマー、ボブ・グルーエン
ニューヨーク・シティ ミラノズ・バー 1994 年4月 撮影 エリザベス・グレゴリー・グルーエン

ザ・クラッシュはすでに解散していたが、ジョー・ストラマーは相変わらず、私の生活の中で大きな役割を演じていた。彼はニューヨークで過ごすことがますます多くなって、ニューヨークではいつも私のアパートに滞在していた。この街にいるときは、いつものニューヨーク仲間――ジム・ジャームッシュ、マット・ディロン、ジョシュ・チューズ――を招集して、いっしょに冒険をしたり、一晩じゅう飲み明かしたりした。  夜、ジョーといっしょに外出するときには、いつもサングラスを持って出なければならなかった……朝になってバーの外に出ると太陽がまぶしく、サングラスが欠かせないからで、実際に使用したことが何度もあった。

1987年、ジョーはロバート・フランクの新作映画『キャンディ・マウンテン』で自分の出番を撮るため、この街に来ていた。小さな役ではあったが、彼はそれに真剣に取り組んでいた、とりわけ、ふたつの台詞を完璧なニューヨーク・アクセントでしゃべってほしいというフランクの要求に苦心しており、私に助けを求めてきた。ある日、彼が私にこんなことを尋ねたのだ。「いかにもニューヨーク的な言い回しって、どんなのがある? 誰でも必ず口にするようなやつ」

私は少し考えて、「D’ya wanna bagel?」(ベーグルでも食うかい?)というのを思いついた。

ジョーが言ってみた。「ベーグルを食べたいかね?」

「だめだめ、それじゃまるっきりイギリス人だよ」

もう一度やってみた。それから何度も何度も何度も。その週はずっと、どこで何をやっているときでも、彼は必ず私のほうを見て、「ベーグルを食べたいかね?」というセリフを口にしたのだった。

ジョーと過ごす時間はいつでも楽しかった。あるとき、彼が幸運の10セント硬貨を見つけたと言ったことがあったのだが……それから少し経って、気がつくとポケットの中に10セント硬貨が二枚あって、どちらが幸運の10セントだかわからなくなったと慌てていたので、私はこう説明してやった。10セントが二倍になったんだからいいじゃないか、10セント玉に期待できる幸運ってその程度のものさ。

1990年代後半に、ジョーはメスカレロスというバンドを結成した。メンバーは優秀なミュージシャン揃いで、ステージで演奏するのはロック、レゲエ、ブルース、ジャズのミックスだった。彼らは素晴らしいライブを何度も行い、その中にはブルックリンのセント・アンズ・ウェアハウスでの一週間公演もあって、毎晩夜が明けるまで演奏が繰り広げられた。

私が彼と最後に過ごしたのは2002年11月で、その夜、ザ・クラッシュがロックンロールの殿堂入りすることがわかった。彼は言ったものだ、「ワォ、殿堂入りか、まるでベーブ・ルースだな!」われわれはダウンタウンのレストランに入って、テーブルの上でダンスを踊って殿堂入りを祝い、その夜を終えた。

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