70年代、80年代のロックスターたちとの日々を綴ったエッセイを、編集部が厳選してご紹介!全9回を1話ごとに平日連日配信
英字雑誌Tokyo Journalにて連載された、世界的ロックフォトグラファー、ボブ・グルーエンの大好評ロックエッセイを、同誌編集部のご厚意により日本語バージョンでお届けします。
本連載では、世界中のロックスターたちに愛されたボブ・グルーエンの幅広い交友ぶりにフォーカスを当てました。
今年発売されたばかりの、ボブ・グルーエン初の自伝『ライト・プレイス ライト・タイム あるロック・フォトグラファーの回想』(ジーンブックス)の中でより詳しく語られるエピソードもありますので、本書を片手に読み比べつつ、ロック黄金期の回想ドキュメンタリーをお楽しみください。
<第9回>ジョン・レノン&オノ・ヨーコ
私がジョンとヨーコを初めて見たのは1971年、ニューヨークに彼らが移り住んだ直後のことでした。彼らはアポロ劇場でのベネフィットコンサートに出演していたのです。その時、バックステージにいた彼らを撮影して、現像したプリントを、彼らの住まいに届けておいたのです。そこは私の住居のすぐ近所でした。もっとも、この時はそれだけのことで終わりました。
それから数か月後、私は雑誌の仕事でエレファンツ・メモリーというバンドを撮影しました。当時、彼らはジョンとヨーコの新作のバックバンドとして起用されており、レコーディング・スタジオに出向いた私はジョンとヨーコがバンドと一緒に写っている写真を撮りました。すると、すぐ後に連絡があり、その時の写真をアルバムに使いたいと言われたのです。
そこでジョンとヨーコの住まいに写真を持っていき、選んでもらうことにしました。ふたりときちんと話すことができたのはこの時が初めてでした。その日の午後を一緒に過ごした後、レコーディング・スタジオにいつでも来ていいし、もっと写真を撮ってもらって構わない、連絡を取り合うようにしてほしいと言われました。そしてヨーコとの親交は40年以上続いたのです。
ジョンとヨーコは仕事に熱心に取り組み、またすばらしいユーモアのセンスを持っていました。だからこそ彼らとは多くの仕事を残すことができ、たくさんの楽しい思い出が得られたのです。
1972年夏、彼らはマジソンスクエアガーデンでのベネフィットコンサートに出演しました。リハーサルでは周囲の喧噪とは対照的にジョンとヨーコは明らかに落ち着いていました。このコンサートでジョンとヨーコがピアノで「イマジン」を弾き語りするところを間近で見たことは、私の人生における大切な思い出になっています。
1973年春になると、ジョンとヨーコがグリニッチヴィレッジにいることはすっかり知れ渡っていました。住まいが通路に面しており、何のセキュリティもなかったため、ふたりは他の住まいを探すようになりました。ある時私が車で二人をコネチカットまで連れていき、家探しにつきあったこともあります。この時には小さな池でボート遊びをしたりもしました。彼らは結局ニューヨークにマンションを借りたのですが、この物件を見た時にも私は同行しています。その後で、新しい住まいの近辺を知っておこうということで、すぐ近くにあるセントラルパークまで一緒に散歩したりもしました。私が気に入っているふたりの写真を撮ったのもこの時で、それはジョンがヨーコに花を差し出しているというものでした。
1973年夏には、ジョンがニューヨークを出てロサンゼルスに移りましたが、私は同行しませんでした。この頃の彼は酒癖の悪さでいろいろと噂されており、彼とはもう会えないかもしれないと私も思っていました。ところが彼は一年後にはニューヨークに戻り、また親しくするようになりました。
ジョンからアルバム『心の壁、愛の橋』のジャケット写真を依頼された時は、なるべくシンプルに、手早くやりたいというのが本人の意向でした。私は彼の住まいに出向き、屋上で撮影しました。十分なだけの撮影を済ませた後も、彼は宣伝用にいろいろ写真を撮っておこうと提案してきました。
その前の年に、私は彼にTシャツをプレゼントしていました。それはよく私が着ていたもので、前面に大きくNew York Cityとプリントされてました。ニューヨークが見渡せる屋上にいたこともあって、私は彼にそれを着てもらいたいと思い、訊いてみたところすぐに取ってきてくれました。それを着て撮った写真は、今ではジョン・レノンを象徴する一枚になっています。もっとも当時の私たちは、この写真がこれほどまでに有名なものになるとは思ってもいなかったのですが。
1974年秋、私がスタジオにいたジョン・レノンを訪ねると、驚いたことにそこにはエルトン・ジョンがいました。二人とも喜んで撮影に応じてくれたのですが、その時に彼らが録音していたのが「真夜中を突っ走れ」でした。この曲がナンバー1ヒットになったことは、当時失意にあったジョンに大きな自信をもたらしたのです。
アメリカ政府がジョンを国外退去させようとしていた頃、アメリカはジョンのような偉大なアーチストを歓迎するべきであり、その考えを象徴しているのが自由の女神だと私は考えていました。そして私は自由の女神と一緒の写真を撮ろうとジョンに提案し、彼も同意してくれたのですが、そのことをとても嬉しく思ったものです。私たちは他の観光客と同じようにして現場に行き、手早く撮影を済ませました。私としては、人々がジョンのことを個人の自由を象徴する存在と見なしてくれるだろうと思ったのです。それこそ自由の女神のように。
この頃になるとジョンは飲酒も止めていました。1975年春にはドイツの雑誌から依頼されて彼の写真を撮ったのですが、まったくの健康体で幸せそうに見えました。そしてヨーコが妊娠していることを教えられ、とても嬉しく思っていると言われたのです。同じ年の秋にはショーンが生まれ、ジョンとヨーコに呼ばれて一家そろっての撮影を行ったのですが、この日のジョンほど幸せそうな彼を見たことがありませんでした。長男のジュリアンが生まれた時はビートルズでツアーに出ていたために育児に関われなかった彼は、ショーンの育児に関わる機会が持てたことを喜んでいたのです。
それからの5年間、ジョンは主夫としてショーンの世話を見ていました。1980年になるとようやくスタジオに戻り、休業中に作りためた曲を録音していきました。アルバム『ダブル・ファンタジー』は恋愛関係にある二人の人間の関係を扱ったものです。12月にはアルバムの宣伝に使う写真を撮影するためスタジオに出向いたところ、アルバムの制作はまだ続いていました。当時のヨーコはようやく良い評価を得られるようになっていましたが、それを受けて取りかかっていたのが「Walking on Thin Ice」という曲でした。新作が好評だったことに気を良くしたジョンはワールドツアーを考えていました。それから私たちは東京やパリでショッピングや食事をどこでするかについて話し、これから面白くなりそうだと愉快な気分で帰宅したのです。
それから2日後、撮影したばかりの写真を自宅で現像していたところに電話がありました。ジョンが撃たれたというのです。それは私が取った中でも最悪の電話になりました。
『ライト・プレイス ライト・タイム あるロック・フォトグラファーの回想』
世界で最もロックを撮った写真家、ボブ・グルーエン初の自伝。250枚超のロックレジェンドたちの写真を掲載した永久保存版!
ジョン・レノン、ボブ・ディラン、ミック・ジャガー、エルトン・ジョン、セックス・ピストルズ、キッス…伝説的ミュージシャンたちとともに1960年代から半世紀以上を歩んできたロックフォトグラファー、ボブ・グルーエン初の回想録『ライト・プレイス ライト・タイム あるロック・フォトグラファーの回想』が遂に日本上陸。
本書では、被写体となったアーティストとの逸話をはじめ、ロックの黎明期より活動してきた著者ならではのエピソードが満載。1970年代よりたびたび訪れた日本の思い出なども存分に語られます。
カラー多数含む250点超の写真を掲載した永久保存版です。
【書誌情報】
書名:ライト・プレイス ライト・タイム あるロック・フォトグラファーの回想
著者:ボブ・グルーエン/デイヴ・トンプソン
訳者:浅尾敦則
仕様: A5判(210×148mm)/ソフトカバー/500頁
価格:3,850円(本体3,500円)
ISBN:978-4-910218-07-6
発売日:2024年8月
発行元:ジーンブックス/株式会社ジーン
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刊行記念ボブ・グルーエンインタビュー配信中!
クレイジーな時代にロック写真家として生きるために見出した「音楽業界のサバイバル術」——ボブ・グルーエンインタビュー<第1回>
(https://books.jeane.jp/article/interview_bobgruen_1/)
Profile
ボブ・グルーエン(Bob Gruen)1945年ニューヨーク州生まれ。ロック・フォトグラファーの草分けにして第一人者。1970年代初頭にプロの写真家として独立してからは多くのミュージシャンと親しくなり、とりわけニューヨーク移住後のジョン・レノン、オノ・ヨーコとは密接な交流を持った。また英米のパンク、ニューウェーブを当初より記録してきたことでも知られる。日本とのつながりも深く、70年代よりたびたび来日し、一時は東京に居を構えていた。2017年には写真集『ROCK SEEN』(SMASH)が日本でも刊行され、あわせて写真展も開催された。ニューヨーク在住。